
錦織圭プレーバック②(2008~12)
ツアー初優勝~ジャパンオープン初優勝
2008年2月、18歳の錦織がデルレイビーチ国際(米国)でツアー初優勝を飾る。当時の世界ランクは244位。予選から7試合を勝って決勝に進み、第1シードのジェームズ・ブレーク(米国、12位)に逆転勝ちした。日本人男子のツアー優勝は1992年の松岡修造以来、史上2人目の快挙だった。
当時、跳び上がってフォアハンドを打つ場面が映像などでよく取り上げられ、マイケル・ジョーダンの「エア・ジョーダン」をもじって「エアK」と命名された。
同年4月には国別対抗戦のデビスカップで代表デビュー。18歳3カ月は日本男子の最年少出場となった。同月、バミューダのチャレンジャー(下部ツアー)で優勝、初の世界ランクトップ100入りを果たした。6月にはアルトワ選手権(英国)でラファエル・ナダル(スペイン、2位)と初対戦。敗れたものの1セットを奪った。ナダルは「彼は数年後にトップ10、いや、トップ5に食い込んでくる」と予言、やがて現実となる。8月には北京大会でオリンピック初出場を果たすが、1回戦で敗れた。
大きな脚光を浴びたのが8月の全米だ。3回戦で第4シードのダビド・フェレール(スペイン)を下し、全米の日本男子では71年ぶり、1968年のオープン化(プロ解禁)以降初の16強入りとなった。
活躍の一方で肉体に異変が起きた。09年1月、全豪前哨戦で右ひじに違和感が出て、やがて離脱。疲労骨折が判明し、会見で「悔しい気持ちもありますが、(中略)回復したときに100%以上の力が出せるように頑張ります」と話した。8月に内視鏡手術を受け、年末には復帰に向けて始動した。この頃、ダンテ・ボッティーニをコーチに迎えた。
10年2月に復帰したが、直後にポイント失効により世界ランキングがなくなった。それでも、下部大会2週連続優勝などで盛り返す。全仏では1年ぶりに四大大会に復帰、2回戦でノバク・ジョコビッチ(セルビア)に敗れた。全米は予選から5試合を勝ち抜き、2回戦ではマリン・チリッチ(クロアチア)を約5時間に及ぶ熱戦の末、破った。
11年は、アンドレ・アガシ(米国)らを指導し、泥臭く勝ちを求める指導方針で知られるブラッド・ギルバートを新コーチに迎えてスタート。9月のデビスカップ、対インド戦では日本の27年ぶりのワールドグループ復帰に貢献した。10月には世界ランク30位となり、松岡修造の46位を抜いて日本男子の歴代最高となった。
さらに同月、スイス室内(バーゼル)の準決勝で1位のジョコビッチを初めて破る。後日、錦織は「自分の戦い方も、一番強い人はどれくらいなのかというのも分かってきた。対戦して得た経験は大きい。目指すテニスが近くにあると感じている」と話した。
堅実さを目指して始まったシーズンだったが、ギルバートとの方向性の違いは明らかで、年内に契約を打ち切った。
12年には全豪で四大大会初のベスト8。四大大会での日本男子の8強は80年ぶりだった。腹筋痛で全仏を欠場するなど、四大大会では勝ち星を増やせなかったが、8月のロンドン五輪で5位入賞(8強)を果たした。
「ケガもあって、苦労した1年になりかけていた」(本人談)が、10月の楽天ジャパンオープンで頑張りが報われた。決勝でミロシュ・ラオニッチ(カナダ)を下し、日本男子として大会初優勝、自身ツアー2勝目となった。後日、「自国での優勝は何よりもうれしく、いい形で(1年を)終われた」と振り返った。



