「ありがとう、錦織圭」吉松さん特別寄稿

2026.09.28

最初の会話「絶対に世界1位になる」

 錦織圭が、取材を受けることについて、どのように思っているか分からない。たずねたことはない。
 2019年ウィンブルドン1回戦後の会見で、「会見をやりたくないと思ったことは?」と質問が飛んだことがある。前日に、大坂なおみが1回戦で敗れ、会見を途中退席していた。
「1回もやめようと思ったことはない。(大坂の退席の)記事が出たときに、僕はあったかなと考えたんですけど、1回もない。そりゃ、やりたくない時はもちろんあるけど、プロというか義務なんで。僕にイエスかノーのチョイスはない」
 これが錦織の答えだった。
 われわれの仕事のくくりは、メディア、プレス、報道など、総称はいくつかあれど、立ち位置は「記者」が最もしっくりくる。昭和には「ブンヤ(聞屋か文屋)」という俗称もあった。テニス担当「記者」は、この20数年ほど、錦織圭の番記者のように、錦織と並走してきた。
 2001年7月下旬だった。東京都調布市にある京王線仙川駅から、住宅街を抜け、噴き出す汗をぬぐいながら、まさにてくてくとコートを目指した。第19回全国小学生選手権が行われている会場で、当時、日本テニス協会の福井烈強化本部長に、協会を立て直す対策を聞く予定だったと記憶している。協会は、2000年度に約1億8000万円の赤字を生んでいた。12万人を超す今では考えられないが、ジャパンオープンの総観客動員数は2万人台まで落ち込んでいた。
 近々の課題は、財政の立て直しと、4大大会で上位を目指せる選手の育成強化によるテニス界の活性化だった。協会は、2001年4月に、ソニー副社長、ソニー生命保険会長を歴任した盛田正明氏が会長に、元デビス杯監督だった渡辺康二氏が専務理事に就任。続いてきた温室体質に外部からメスを入れる形で、改革にかじを切った。
 年季の入った赤土のコートを横目に、福井強化本部長に話を聞いた。その横で、同大会で優勝する「錦織圭」という11歳7か月、松江市立乃木小6年生が、13年後に4大大会で準優勝することなど知るよしもない。「錦織」という字面は、ドローに書かれているため、頭の片隅にあった。しかし、面識もなく、プレースタイルも知らない。
「何て読むんだ?」
 1歳年上で、2000年に全国小学生選手権に優勝。2003年に盛田テニス基金の支援を受け、錦織とともに米国に渡った喜多文明が、初めてドローで「錦織」の漢字を見たときの第一印象だ。記者も、それと同じだった。
 盛田氏が会長に就任し、錦織が優勝した2001年。その後、錦織は、盛田氏の基金で米国に旅立つ。その数奇な運命がスタートした場に、全くの門外漢だった記者は、偶然にも出くわした。しかし、記者が錦織を意識するのは、もっと後、4年後の2005年になる。その日から、記者は「錦織圭」というたぐいまれなアスリートと並走していった。

 懇意にしているテニス記者から、改めて錦織の話を聞いたのが2005年ウィンブルドンだった。「ああ、あの何て読むのか分からなかった子」。これで思い出した。その記者は、2004年9月の16歳以下国別対抗戦ジュニアデビス杯をスペイン・バルセロナで取材し、日本代表のNO・1として出場した錦織のすごさやプレーの楽しさを話してくれた。当時、錦織はまだ14歳だった。
 ちょうど、2005年のウィンブルドンのジュニアに、錦織は出場していた。予選を勝ち上がり、本戦1回戦で第15シードのティモシー・ニーリー(バハマ)と対戦した。ニーリーは、2004年末に行われたジュニア世界一決定戦とも言われるオレンジボウルの優勝者だった。はっきりと、21年前のオールイングランド・ローンテニスクラブの光景は思い出す。
 6月27日の7番コート。第3試合だった。7番コートは、現在の位置と違い、センターコートの南側に並ぶ一連のコート群の中で、西の端にあった。脇に小ぶりな観客席と、芝生で座れるところがあり、その芝生の上で、記者は目がくぎ付けになっていた。
 あまりのおもしろさに「何だこれは」と、笑いが止まらなかった。どのショットも飛び道具のように予測不可能で、ピンチになればなるほど、そのショットはさえ渡った。反対側の観客席には、見覚えがある多くの代理人の顔が見られた。彼らは、明らかに錦織をチェックしていた。
 結果は、2-6、6-1、4-6のフルセットで錦織は敗れた。2週間前に腹筋を痛めていた。しかし、錦織を視察していた代理人たちは、どこか満足そうだった。後から聞いた話だが、彼らのチェックポイントは勝敗ではなかった。ピンチの時に、どのような行動を取り、どんなショットを打つかに、将来の光を見いだしていた。

 IMGのオリバー・ファンリンドンク氏は、約20年、錦織を代理人として支えてきた。彼が、錦織のプレーを初めて見たときに感じたのが、「黄金の手を持っている」だった。錦織の右手からは、15歳の時点で、魔法のように、あらゆる球種が上下左右に飛び出した。
 試合後、簡単に話を聞いた。「絶対に世界1位になる」。その言葉が、錦織と記者との最初の会話だった気がする。

 ウィンブルドンの後は、全米だった。
 IMGアカデミーのシーザー・カスタネダ・コーチは、錦織圭の腕をつかみ、こわばった表情で、全米の選手エリアを小走りで抜けていた。記者を含む数人の報道陣が追う。2005年全米のジュニア3回戦で、錦織は第7シードで、同年のウィンブルドン・ジュニアを制したジェレミ・シャルディ(フランス)に敗れていた。逃げ戸惑う錦織の表情をよく覚えている。まだ、ほとんど取材を受けるといった日常はなく、試合が終わった後、報道陣から話を聞かれるとも思っていなかったようだ。
 観念したのか、カスタネダ・コーチは止まり、確か「10分だけ」と取材を許可した。わずか3~4人の日本の報道陣が車座になり、錦織を囲んだ。多くの話は、全米ジュニアよりも、錦織の出身や、拠点のことについて費やされた。明らかに、将来、錦織が活躍した時の「仕込み」用の取材だった。その錦織の基礎とも言える「仕込み」は、わずか3年後に役に立つことになる。
 迎えた2005年10月の大阪市長杯世界スーパージュニア選手権。ジュニアの世界ツアーの中でも、当時、4大大会と並んで、もっとも高いレベルでの大会だった。とはいえ、ジュニアである。スポーツ新聞の記者として、仕事では紙面上で展開できない。休みを取って出かけた。
 第9シードの錦織は、1セットも落とさずに準決勝に進出。再び、第1シードで、当時、ジュニア世界3位のシャルディと対峙(たいじ)した。15歳の錦織に対し、シャルディは18歳。過去、錦織は2戦全敗だった。試合は、非常にレベルが高かった。錦織にもチャンスがあったが、全米に続いてストレートで敗れた。試合について聞くと、「う~ん」とうなっていたことを思い出す。シャイで口べたの錦織にとって、悔しい敗戦だったに違いない。プロ転向後、錦織はシャルディに7勝2敗だった。
 記者として、初めて錦織を紙面に掲載したのも、この2005年だった。ウィンブルドンで、「15歳錦織惜敗」という短い記事を潜り込ませた。もちろん、デスクの許可を得てだ。メーンの記事は「シャラポワ4強」だった。全米でも「15歳錦織Jr敗退」という小見出しで、雑感を掲載した。悪い言い方をすれば、「絶対に先につばをつけておいた方がいいですよ」とデスクをだまし、節目節目で、2005年以降も、小さな記事を出し続けた。2006年1月の全豪ジュニアで8強入り。国際テニス連盟に調べてもらい、日本男子4大大会ジュニア初の8強入りと分かった。続く6月の全仏ジュニアでダブルスで優勝。これも日本男子初めてだった。当時、ネットはほとんどなかった。紙面の記事は、少しずつ大きくなっていった。

 そして、2008年2月17日が来た。米国フロリダ州デルレービーチ。デルレービーチ国際で、世界ランキング244位の錦織圭は、予選3試合を勝ち抜き本戦入り。本戦でも4試合を勝ち上がり決勝に進んだ。その日、世界12位で第1シードのジェームズ・ブレーク(米国)との試合は、1時間26分、その後、錦織の代名詞となるフルセットでの逆転劇だった。ツアー本戦出場わずか6大会目での優勝だった。
 18歳1か月は、1998年にレイトン・ヒューイット(オーストラリア)がアデレード国際で16歳で優勝して以来の若さ。日本男子としては、1992年韓国オープンに優勝した松岡修造以来16年ぶり史上2人目の世界ツアー優勝の快挙だった。
 記事は、2月19日売りに掲載された。時差の関係で、17日の決勝は日本時間18日。18日に紙面をつくり、19日に販売された。1面だった。記者にとっても、錦織圭、最初の1面だった。それどころか、2面にも記事は掲載された。父・清志さんにも連絡を取り、「小さいころの思い出が、1つ1つよみがえった」という話を2面に掲載した。
 うれしいというよりも、ほっとしたことを覚えている。いい意味で社をだまし、掲載続けたことが、うそじゃなかったと証明できたことに、少し安心していた。2005年全米での「仕込み」も役に立った。その後は、ここに「記者」が書く必要などないほど、錦織圭の名前は、国内から世界へ広まった。
 2026年5月1日。錦織は自身のSNSで、今季限りでの引退を発表した。錦織のテニス人生は、9月30日開幕の木下グループジャパンオープンで幕を閉じる。それは、記者の並走が、ひとまず終わることも意味した。
 2019年以降は、途中、新型コロナ禍もあり、なかなか継続して取材できる機会が減った。だから、引退を発表して以降は、なるべく生での取材にこだわった。引退発表後、初めて出場するムバダラDCオープンを取材するために、米国ワシントンDCに飛んだ。大会前、センターコートで、世界6位のアレックス・デミノー(オーストラリア)と練習する錦織に会った。練習後、コートを去る際、記者に声をかけてきた。
「来てくれたんですね」
 並走が報われた瞬間だった。

#ありがとう錦織圭

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