
一流の役者と通ずる二面性と「華」
記憶の糸を解きほぐし、錦織圭選手との出会いまで辿るとき、私の頭には「縁(えにし)」という言葉が思い浮かびます。
あれは、私がまだWOWOWさんのスペシャルナビゲーターになる前の2007年。父が「2009年に、ウインブルドンのセンターコートに開閉式の屋根が出来る。屋根のないセンターコートを見られるのは来年が最後だから、ウインブルドンに行こう」と誘ってきたのです。父の修は、ウインブルドンにも6度出場した元プロテニス選手。自分がプレーするのはもちろんですが、テニスを観るのも大好きでした。その父が、「錦織圭という、すごい若手が出てきた。彼はケガさえしなければ、過去最強の日本人選手になる可能性を大いに秘めている」と言ったのです。それが、彼の名を初めて聞いた時。「錦織と書いて『にしこり』と読むのね」と思ったこと、そして厳格な父が、17歳の少年を高く評価したことに驚いたのを覚えています。
WOWOWさんからスペシャルナビゲーターのお話を頂いたのは、この父との会話から間もなくのことでした。行こうと思っていたウインブルドンに仕事で行けることになり、その年のウインブルドンに錦織選手も初出場。しかも私が司会役をつとめ、父と私がウインブルドンのWOWOWスタジオで対談することにもなったのです。父子共演に気恥ずかしさを覚えつつも、不思議な縁を感じたものでした。
この2008年のウインブルドンが、錦織選手の四大大会本戦デビュー戦。1回戦が行われた12番コートに私も見に行ったのですが、錦織選手は2セット目の途中で、腹筋を痛め棄権しました。その展開に慌てたのはプロデューサーです。私は試合終わりにスタジオから中継をする予定だったので、12番コートからメディアセンターまで、観客をかき分け猛ダッシュ! なんとか間に合い放送につなげられたことが、懐かしく思い出されます。
ウインブルドンのWOWOWスタジオには、錦織選手と過ごした様々な思い出が染み込んでいます。
2010年のウインブルドンでは、錦織選手は1回戦で当時世界1位のラファエル・ナダル選手と当たることになりました。その試合の前日だったと思います。私が錦織選手に、ウインブルドンのセンターコートでナダル選手と対戦する気持ちを聞くと、彼は「どうせやるなら、もっと先でやりたかった」と言ったのです。「あっ」と、雷に打たれたようになりました。私は心のどこかで、日本人選手がセンターコートに立つことそのものが栄誉だと思っていたのだと思います。ですが錦織選手の目は、そんなところに向けられていなかった。彼の目指す高みに触れた瞬間でした。
7~8年前のことだったでしょうか。錦織選手が試合中に芝の上でスライディングをしていたので、インタビューでそのことに触れたら、「試合前にジョコビッチが滑っているのを見て、自分もやってみようと思った」と言うのです。芝の上でスライディングをすることが、とてもハイリスクに思えるのだけど、見ただけでパッとできてしまうのかと、ものすごく驚かされました。
それら数々の思い出の中でも、最も印象深いのは……これはもう時効ですよね? 2014年の3回戦で、錦織選手はミドルサンデーを挟む雨天中断のため、3日間に及ぶフルセットマッチを戦ったことがありました。中断したのは、ファイナルセットの残り数ゲームという場面。どれほどの緊張感で月曜日の再開を迎えるのかと、こちらも緊張していました。ところが月曜日の朝、錦織選手はひょっこりWOWOWスタジオに現れて、「すみません、サッカーのワールドカップ、ここでちょっと見てもいいですか?」と言うのです!?もうこちらは、ビックリするやら心配になるやら。それでも彼は、再開後の試合であっさり勝利。彼のオン・オフの切り替えの凄まじさを、目の当たりにした体験でした。
このように、良い意味で二面性を内包している錦織選手の人間性は、一流の役者と通ずるところがあると感じています。俳優は、何かを伝えたいという渇望が強い一方で、シャイな人も多い。その矛盾する二つの要素を併せ持つ者が、本番で舞台に立った時に、台本を超えたとてつもないパフォーマンスを発揮するのです。そして私は錦織選手のテニスにも、同じような『華』を見るのです。
私が、尊敬する先輩から言われ大切にしている言葉に、「手の中に隠した物を、ゆっくり手を広げて見せるように役を演じなさい」があります。一度に全てをさらけ出すのではなく、玉ねぎの皮を剥くかのごとく、徐々に徐々に、内面や人間性を表現するのが演技の極意。映画や舞台を観た人が、帰りに「あの登場人物は、あの時どう思ったんだろうね?」「彼ってこういう人物だったのかな」と語り合いたくなるのが、エンターテインメントの醍醐味だと思っています。
錦織選手のテニスを見たとき、私は優れた演技を観賞したときと同じような興奮を覚えました。次に何が出てくるか分からない、何が起きるか分からないワクワク感!見ている我々の背中が、椅子の背もたれを離れてフッと前のめりになる吸引力——。それこそが、錦織選手のテニスの真髄だと思っています。
錦織選手が残した数多のレガシーの中で、私が一番大きいと思うのは「テニスって面白い!」と、多くの人たちに教えてくれたことです。テニスを知らない人が見ても、引き込まれる唯一無二の存在。テニスの楽しさを万人に伝えてくれたことが、彼が成し遂げた最大の功績だと思っています。
だから今、彼に伝えたい言葉は「ありがとう」に尽きます。「お疲れ様」とはまだ言いたくない。だから、ただ本当に、ありがとう。


