
痛いほどわかる「やりたい、でもできない。でもやりたい」
錦織圭の名を初めて聞いたり、最初に会ったのはいつか——。
これは最近よく聞かれる問いなのですが、はっきり「いつ」かは、なかなか思い出せないものです。ただ強く印象に残っているのは、2006年の全仏オープン。ラファエル・ナダル選手の、決勝前の練習相手をつとめたと知ったときでした。それまでにも天才少年との噂は聞いていたので、本当にすごい子なのだなと思うと同時に、なんとなく身近な存在に感じたように思います。
実際に初めて会って話をしたのは、確か2009年だったと思います。その前年に現役復帰した私は、アメリカ遠征の合間にIMGアカデミーで練習をする機会があり、そこで錦織くんとご挨拶。夜はみんなで、アカデミーの近所の和食屋に食事にも行きました。当時の彼の印象は、今とさほど変わりません。口数が多い訳ではないけれど、かといって人見知りという訳でもない。その場の空間に溶け込み、人の話を聞いてけらけらと笑っているような、穏やかな少年という雰囲気でした。
当時の錦織くんは既にツアー優勝もしており、トップ選手の仲間入りをし始めた時期だったと思います。私のファーストキャリアの90年代は、男子もトップ選手は常に緊張感があり、近寄り難い空気をまとっていました。でも錦織くんは、そうではない。時代的な変化なのか、あるいは彼特有のものなのか。いずれにしても、私がかつて見てきたトップ選手たちとは、雰囲気が違うな、と少し驚いたものです。
その後、彼のテニスを直接見る機会も増えましたが、最も間近に見たという意味では、2012年の全豪オープンでしょう。何しろミックスダブルスを組み、一緒にコートに立っていたのですから!
ダブルスは好きではあるものの、ミックスは滅多にしない私ですが、あの時は「こんなに楽しいんだ」と思った記憶があります。錦織くんはリターンは良いし、サーブ&ボレーもする。読みが良いので反応も早く、前に出るタイミングやフィーリングも独特のものを持っている。普段は可愛らしい弟分が、頼もしいお兄さんになった感じでした。
私が引退後にWOWOWテニスアンバサダーになってからは、スタジオで雑談をする機会が増え、そんなときの彼は自然体でいろいろと本音を聞かせてくれたように思います。ケガについてとか、先頭を走り続けなくてはいけない苦しさとか……。
表向きは飄々としているし、基本的にはマイペースだと思うのですが、その奥に隠された芯の強さやストイックさも感じました。そのような性格やバランス感覚が、彼のコート上での発想力にも繋がっているのだろうなと思います。
2022年の春に、私が運営するジュニアキャンプ『伊達公子×YONEX PROJECT』を沖縄で開催したとき、錦織くんがサプライズで来てくれたことがありました。そのときの錦織くんは、股関節の手術でリハビリ中。彼の方から、「沖縄で合宿をやると聞いたんですが、僕も行っていいですか?」と言ってくれて実現しました。
ジュニアを指導する彼の姿からは、自身の経験をジュニアに伝えたいという思いと、同時に、彼自身が『自分探し』をしているようにも感じました。恐らくは将来のことも考え始めているなかで、いろいろな可能性を自問自答しているようでもありました。
錦織くんが引退を表明した後、私からはまだ連絡していません。やりたい気持ちはあるのに、体がそれを許してくれず辞めざるをえない無念さは、私自身の2度目の引退がそうだったので、痛いほどに分かります。だから、このタイミングでメッセージを送るのも心苦しいですし、今ではなくていいかなと思っています。
それよりも私としては、彼がもがいている時期の方が心配でした。引退というものを、どこかで決めなくてはいけないことは分かっている。その時がどんどん迫っていることを感じてはいるけれど、自分の心はそれを受け入れられない。「やりたい、でもできない。でもやりたい」と堂々巡りするなかで、区切りを決めなくてはいけない葛藤や苦しみは、経験上わかりますから……。
周りとしては寂しさや、それぞれ思うことはあるでしょうが、一人の選手の決断を尊重するしかないと思っています。
彼が残してくれた功績は、測り知れないと思います。それは、日本テニス界にだけではない。アジアの選手たちに対し、男子選手がグランドスラムの決勝に行けるという事実を、示してくれた訳ですから。
私自身も90年代に世界4位に行ったとき、「日本人として最高位」という感覚でいました。すると周りから、「いや、違う。日本のではなく、アジアの伊達公子なのだよ」と言われて嬉しかったことを覚えています。
その後、女子は中国からも多くの選手が出てきて、アジア人が世界で活躍するのは珍しくなくなりました。男子は女子よりもさらにハードルが高いなかで、錦織くんはグランドスラム決勝進出を実現した。それは本当に偉業なので、そこに対し「日本人」という表現は小さい。もっと大きな枠で評価すべきだと思っています。
この先、錦織くんが何をやるのか? それが何だとしても、ここまで積み上げてきたものを、本当に誇りに思ってほしい。それをベースに、ゆっくり焦らず、明るい未来へと歩んでいってほしいなと思います。


