
錦織圭プレーバック①(1989~2007)
生誕~プロデビュー
1989年12月、島根県松江市に生まれる。テニスとの出合いは5歳の頃。大学時代に同好会でテニスに親しんだ父親の清志さんの手ほどきを受け、自宅近くの公園のコートなどで練習した。4歳上の姉・玲奈さんと打ち合うことも多かった。
小学校1年の頃から松江市のグリーンテニススクールで腕を磨く。壁打ちも大好きで、小学校の高学年まで飽きずに続けた。父の清志さんとの練習は、ショットの目的やねらい方など頭を使うものが多かった。そうして幼いなりに「いろんなショットを使い、頭も使いながら相手と駆け引きする」(本人談)というテニス観が形成された。
家族でゲームをしても、負けると涙を流すほどの負けず嫌い。体力で上回る上級生や同年代に敗れ、悔し涙を流すこともあったという。6年生になると結果がついてきた。全国選抜ジュニア12歳以下、全国小学生、全日本ジュニア12歳以下の「小学生三冠」を獲得した。
松岡修造氏の育成プロジェクト「修造チャレンジ」には11歳から参加。他の選手は中学生以上がほとんどで、異例の抜擢だった。錦織は期待に応え、試合形式の練習で高校生を破ったこともある。松岡氏はその才能と個性を尊重し、のちに「僕と正反対のタイプで、僕には彼を教えることはできないと思った」と話している。
小学校の卒業文集に寄せた作文には「夢は世界チャンピオンになることです。夢に向かって一歩一歩がんばっていきます」と書いた。
2002年、松江市の開星中学校に入学。この年と翌03年には日本テニス協会の派遣で欧州の14歳以下のサーキットに参加する。2年目は4大会で優勝2、準優勝1、敗者復活戦優勝1の好成績。ワールドテニス(当時国際テニス連盟=ITF)が主催する14歳以下の国別対抗戦では日本の準優勝に貢献した。
同年秋、盛田正明テニス・ファンドの支援で、喜多文明、富田玄輝とともにアメリカに渡る。同ファンドは現日本テニス協会名誉顧問の盛田氏が2000年に私財で設立した、世界を目指す若い選手を支援する奨学金制度だ。受け入れ先は名コーチのニック・ボロテリー率いる、米国フロリダ州のIMGアカデミーだった。
2006年、全仏のジュニア部門でアルゼンチンのエミリアノ・マサとのダブルスで優勝を飾る。日本男子では四大大会ジュニアで初の栄冠だった。その決勝の直後には、本戦の決勝を控えたラファエル・ナダルの練習相手をつとめた。同年10月にはメキシコで行われたフューチャーズ(プロの登竜門と位置づけられる下部大会)で初優勝を飾る。
そうして2007年10月に17歳でプロに転向した。記者会見では「フォアハンドが得意。フォアを使って観客に喜んでもらえるプレーをしたい」と抱負を述べた。数日後にはジャパンオープンに出場、1回戦で敗れたが、破壊力のあるショットを披露した。


