世界戦20度目の王者に死角なし?
歴史的大番狂わせを狙うモルメク
当初、このカードは昨年12月10日に行われる予定だったが、オーストリアでキャンプ中だったクリチコが腹痛を訴えて診断をうけたところ腎臓結石であることが判明。試合1週間前になって延期が決定したという経緯がある。
クリチコの病気によって仕切り直しとなった一戦だが、下馬評に変化はみられない。変わったことといえば33対1と一方的だったオッズ(賭け率)が、さらに41対1に開いたということぐらいだろうか。それほどにこの一戦はクリチコの圧倒的有利が囁かれているのである。一部では「ミスマッチ」の声も挙がっているほどだ。
しかし、ボクシング、とりわけ最重量級のヘビー級の歴史が番狂わせの歴史でもあるということを忘れてはなるまい。22年前、東京ドームで「宇宙一強い」とまで言われたマイク・タイソン(アメリカ)が伏兵ジェームス・ダグラス(アメリカ)に敗れたときのオッズは42対1だった。74年には5対1のオッズが引っくり返ったモハメド・アリ(アメリカ)対ジョージ・フォアマン(アメリカ)の「キンシャサの奇跡」もあった。
ビタリ&ウラディミールのクリチコ兄弟も例外ではない。兄ビタリは2000年にクリス・バード(アメリカ)に9回終了TKO負けを喫しているし、弟ウラディミールも03年にコリー・サンダース(南アフリカ)に2回TKO負け、04年にレイモン・ブリュースター(アメリカ)に5回TKO負けを喫している。いずれも大がつくほどの番狂わせだった。
もしも今回、モルメクがクリチコを破るようなことがあれば、私たちはタイソン対ダグラスに匹敵する歴史的な大番狂わせの目撃者となるのである。そのことを頭に置いてリングを見つめたいものだ。
身長2メートル、リーチ2メートル6センチ、体重110キロ前後のクリチコは、これが実に20度目の世界戦となる(19戦17勝14KO2敗)。06年4月に2度目の王座獲得以後は11連勝(9KO)という凄まじさである。WBO王者スルタン・イブラギモフ(ロシア)もWBA王者デビッド・ヘイ(イギリス)も、まったく歯が立たなかった。打たれ脆い面のあるクリチコだが、ここ数年は窮地らしいシーンは皆無といってもいいほどだ。
クリチコに安定感をもたらした理由はいくつか考えられる。左ジャブの精度を増したことやスタミナ配分を覚えたことなどは、その最たるものといえよう。経験を増すごとにボクシングが成熟してきたともいえるだろう。もともと右ストレートという決め手を持っているうえに冷静に構えられたとあっては、相手としてはたまったものではない。
挑戦者のモルメクはカリブ海のフランス領グアダルーペ島生まれの39歳。モルメクが6歳のときに家族でパリに移住した。少年時代にフットボールやムエタイ(キックボクシング)を経験後、アマチュアボクシングで15戦13勝(7KO、RSC)という戦績を残した。プロデビューはクリチコよりも1年8ヵ月早い95年3月のこと。以来、足掛け18年で8度の世界戦(6勝3KO2敗)を含み40戦36勝(22KO)4敗のレコードを残している。クルーザー級では2度の戴冠実績を持ち、WBA・WBC2団体の統一王者にもなっている。デビッド・ヘイに敗れて一度は引退したが、2年後の09年にヘビー級で戦線復帰。新天地ではしぶとく三つの判定勝ちを連ねて今回の挑戦に繋げた。
身長はクリチコよりも20センチ近く小柄な181センチで、リーチは18センチ短い188センチ。体重も98キロ前後がベストで、これも王者より10キロ以上軽い。加えて年齢は4歳上だ。KO率はクリチコの83パーセントに対し55パーセント。数字を見るかぎりモルメクに有利なものは皆無といえる。こうしたデータが41対1の根拠になっているわけだ。
順当にいけばクリチコがジャブでコントロールし、右ストレートでけりをつけるものと思われる。打たれ強くはないモルメクだけに、よほど奮起しないと中盤を迎えるのも難しいだろう。
しかし、挑戦者に勝機がないかというとそうとも言い切れない。的を絞らせずに前後左右に動き、機動力を駆使すれば王者を慌てさせることは可能だろう。序盤でかき回し、そのうえでインサイドに潜ってショートのパンチを見舞うことができれば面白い展開に持ち込めるだろう。
常識的な線に落ち着くのか、それとも歴史的大番狂わせが起こるのか。ボクシングは何が起こるか分からない。デュッセルドルフのリングに注目したい。
Written by ボクシングライター原功
TALE OF THE TAPE | ||
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ウラディミール・クリチコ | ジャン・マルク・モルメク | |
1976年3月25日/35歳 | 生年月日 | 1972年6月3日/39歳 |
ウクライナ | 国籍 | フランス |
カザフスタン | 出身地 | フランス領グアダループ島 |
96年アトランタ五輪SH級金 (134勝65KO・RSC6敗) |
アマ実績 | 15戦13勝(7KO、RSC)2敗 |
96年11月 | プロデビュー | 95年3月 |
WBAヘビー級 IBFヘビー級(V10中) WBOヘビー級(V6中) |
獲得王座 | WBA・WBCクルーザー級 (各2度) |
200センチ/206センチ | 身長/リーチ | 181センチ/188センチ |
110キロ前後 | 体重 | 98キロ前後 |
右ボクサーファイター型 | タイプ | 右ボクサーファイター型 |
59戦56勝(49KO)3敗 | 戦績 | 40戦36勝(22KO)4敗 |
約83パーセント | KO率 | 55パーセント |
下の階級から上げてヘビー級も制した王者たち
マイケル・スピンクス(アメリカ) イベンダー・ホリフィールド(アメリカ) マイケル・モーラー(アメリカ) ロイ・ジョーンズ(アメリカ) デビッド・ヘイ(イギリス) |
L・ヘビー級 ⇒ ヘビー級 クルーザー級 ⇒ ヘビー級 L・ヘビー級 ⇒ ヘビー級 ミドル〜L・ヘビー級 ⇒ ヘビー級 クルーザー級 ⇒ ヘビー級 |
ビタリ・クリチコ
ヘビー級トップ戦線の現状
WBAスーパー:ウラディミール・クリチコ(ウクライナ)
WBA:アレクサンデル・ポベトキン(ロシア)
WBC:ビタリ・クリチコ(ウクライナ)
IBF:ウラディミール・クリチコ(ウクライナ)
WBO:ウラディミール・クリチコ(ウクライナ)
昨年7月、ウラディミール・クリチコ(ウクライナ)がWBA王者だったデビッド・ヘイ(イギリス)に圧勝して3団体統一王者になったことで、WBC王者の兄ビタリ・クリチコ(ウクライナ)とともに「クリチコ政権」を完成させた。ウラディミール・クリチコが"スーパー・チャンピオン"に格上げされたことでアレクサンデル・ポベトキン(ロシア)がレギュラー王座に納まったが、兄弟との差は小さくない。
今回の試合もウラディミールの牙城は揺るがないと見られているが、2月18日に圧倒的有利が伝えられた兄がディレック・チゾラ(イギリス)に苦戦したばかりだ。ウラディミールはその姿を間近に見ており、ジャン・マルク・モルメク(フランス)戦を前に気を引き締めたことだろう。
王座の一角を崩す可能性を秘めた一番手としては、長身の強打者ロバート・エレニアス(フィンランド)がいる。しかし、昨年12月にはチゾラに大苦戦しており、まだまだ勝負は先になりそうだ。同じ欧州勢としては身長2メートル6センチの大型ホープ、タイソン・フューリー(イギリス)もいる。17戦全勝(12KO)の快進撃を続けているが、こちらも大舞台に上がるまでにはもう少し時間が必要だろう。
こうした一方、ここ5年以上、アメリカ勢は16連敗中と惨憺たる状況にある。09年9月を最後にアメリカ国内ではヘビー級の世界戦が開催されていないという危機的状況だ。ハシム・ラクマン、クリス・アレオーラ、トニー・トンプソンらランカーは数人いるが、ほとんどがクリチコ兄弟に惨敗しているメンバーである。多くを望むのは酷というものだろう。生きのいいスター性のある若手の登場が待たれる。