東日本大震災から3年。再建された鉄路を辿り、復興の地へ。
海、山、大地の絶景を求め、古の人々も旅した東北には、今も年間1億人の観光客が訪れています。東日本大震災から3年。甚大な被害にあった鉄道は、現在95%が再建されました。東北を結ぶ情緒豊かな鉄路を辿り、福島、宮城、山形、岩手、青森へ。復興に取り組む被災地の姿とともに、純朴でぬくもりに満ちたその美しき日本の故郷の風景をお届けします。
PART2
仙台〜山寺〜松島〜平泉〜一ノ関〜 気仙沼〜陸前高田
かつて宮城野と呼ばれた仙台で、本格的な街づくりが始まったのは江戸初期のこと。仙台藩の初代藩主・伊達政宗が仙台城を建設。城の周囲には武士や僧侶、商人や職人が暮らす城下町が整備され、瞬く間に5万人が暮らす地方都市として発展します。また一帯の水田開発により、実質的な石高が100万石を超えた仙台藩は、加賀藩や薩摩藩、尾張藩に次ぐ豊かな藩として繁栄していきます。国分町は中でも旅籠や呉服屋が並ぶ商業の中心地でした。現在も東北屈指の繁華街であるここは、仙台名物の牛タンの激戦区でもあります。
1602(慶長7)年に完成した仙台城は、建築や絵画の専門家を招へいし、桃山文化の粋を集めて造られた、絢爛豪華な山城であったといいます。城は仙台空襲で焼失。5万トンという石材を投じた石垣が、今はその往時を伝えています。丘の上の展望台からは杜の都が一望できます。
1636(寛永13)年に没した伊達政宗が眠る霊廟です。桃山様式の遺風を伝える優美な廟建築は、戦災で焼失しましたが、1979(昭和54)年に再建。金をちりばめた極彩色の建物は息をのむほどの美しさです。
奈良時代に聖武天皇により造られた国内最北の国分寺跡。雷や戦火により消滅したその国分寺跡に薬師堂を建立したのは伊達政宗です。桃山風の華麗な装飾をまとい、1607(慶長11)年に3年の歳月をかけて再建されました。厨子内には薬師如来像が安置されています。
仙台と山形の羽前千歳を結ぶ仙山線は、1937(昭和12)年に全線が開通。仙台周辺にベッドタウンが広がった現在は、通勤や通学の足として欠かせない生活路線になっています。広瀬川の深い渓谷を抜け奥羽山脈に入ると、作並温泉に到着。約1200年前に行基によって発見されたと伝わる仙台の奥座敷です。なお仙山線は鉄道の近代化を目指し、昭和30年代に交流電化試験が行われた鉄道の名所で、作並駅には「交流電化発祥の地」の碑が建っています。
作並から仙山線で約20分。山寺駅の正面に聳える小高い山に宝珠山立石寺、通称・山寺が開かれたのは、860(貞観2)年のこと。比叡山延暦寺の別院であるこの天台宗の寺は、古来より悪縁切り寺として信仰を集めています。山頂まで続くおよそ1000段の階段は、参拝者の心を浄める道のり。一段一段煩悩を忘れ登りつめ、1689(元禄2)年には、かの松尾芭蕉もここで名句を詠んでいます。「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」。五大堂からは一帯の絶景が堪能できます。
仙台と石巻を結ぶ仙石線は、1928(昭和3)年に私鉄の宮城電気鉄道として全線が開通。当時「風光明媚な海岸を行く、日本一の臨海電車」とつけられたキャッチフレーズは、人々の憧れをかきたてました。いち早く展望車両を導入し、女性ガイドが華を添えたこの観光路線も、東日本大震災で大きな打撃を受けました。高城町と陸前小野を結ぶ約12㎞の区間で今も運休が続く仙石線は、2015(平成27)年全線開通に向け、復旧が進められています。
平安の昔からその美しさが広く知られた松島は、大小さまざまな島々が絵画のように浮かび上がる日本三景のひとつです。仁王島や鐘島、千貫島など、観光船からは個性あふれる島々や風景をご覧いただけます。この絶景に松尾芭蕉も「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだという逸話が残っていますが、実際は松島の絶景に敬意を表し、敢えて句を詠むことを差し控えたようです。
828(天長5)年に創建され、奥州藤原氏や北条氏の庇護を受け、奥州随一の大寺院に発展。その後一時衰退したこの瑞巌寺を再建したのが伊達政宗です。熊野から銘木を伐りだし、全国から130名の名工を集め、5年かけて1609(慶長14)年に完成した壮麗な寺は、以来伊達家の菩提寺となります。※本堂は2016(平成28)年まで改修工事中で拝観できません。
807(大同2)年に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる御堂。現在の建物は伊達政宗が1604(慶長9)年に再建したもので、東北地方現存最古の桃山建築です。国重要文化財。
北上川中流に位置する平泉には、平安時代を彩る栄枯盛衰の歴史が刻まれています。11世紀後半から一帯を支配した藤原四代は、浄土思想や黄金文化に基づき、中尊寺や毛越寺など300を超える仏教施設を建設。源義経の死後、藤原氏は源頼朝に滅ぼされますが、900年の時を超えて輝く建物や文化は、世界遺産にも指定され大切に守られています。松尾芭蕉もかつてここを訪れ、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んでいます。
平泉の名刹、中尊寺は、初代藤原清衡が12世紀のはじめに大規模な造営を行った大寺院。末永い平泉の繁栄を願う、切なる思いが込められていました。寺では今も稚児行列が並ぶ藤原四代の追善法要が行われています。金箔がはりめぐらされ、30体の仏像が安置される金色堂で、奥州藤原氏の当主たちは永遠の眠りについています。
岩手第2の都市一ノ関は、新幹線や東北本線が乗り入れる一大ターミナル。内陸の一ノ関と太平洋沿岸の盛を結ぶ約105kmのローカル線、大船渡線の始発駅でもあります。大船渡線は1925(大正14)年の部分開通に始まり、山岳部の難工事を経て、1935(昭和10)年に全線が開通。その曲がりくねったルートが龍のように見えることから、ドラゴンレールの愛称で親しまれています。
北上川支流の砂鉄川沿いに、高さ100mを超える石灰岩の岸壁がおよそ2㎞にわたって続く渓谷です。知る人ぞ知る静かな秘境が一躍有名になったのは、1925(大正14)年に国の名勝に指定されてから。船頭の歌声を聴きながら巨岩、奇岩が連なる絶景を堪能できる舟下りは、現在年間25万人もの観光客で賑わっています。
東日本大震災ですさまじい被害に見舞われながらも、驚異の復活により、カツオの水揚げ高日本一を維持している東北最大の港町が気仙沼です。震災わずか3ヶ月で魚市場は再開。サメの水揚げ高全国一も維持する港町は、基幹産業の漁業から再生を始めました。復興商店街では名物フカヒレ寿司が楽しめ、地域の水産加工業も活気を取り戻しています。
白砂青松の景勝地として詠われ、年間100万人もの人々が訪れた高田松原。砂浜に茂っていた7万本ものクロマツは過去の度重なる津波から高田の町を守ってきましたが、東日本大震災ではそのほとんどが流失。唯一耐え残ったのが奇跡の一本松です。現在では復興のシンボルとして整備保存されています。