青き水と緑の山と紅の家々が織り成す、珠玉の東欧
ユーゴスラビア紛争からいち早く復興を遂げ、観光立国として脚光を浴びるクロアチア。首都ザグレブから湖と滝に彩られた世界遺産を訪ね、鉄道でディナル・アルプスをのんびり南下。“アドリア海の楽園”と謳われる海沿いの古都を訪ね歩けば、のどかなクロアチアらしい風景と次々に出会えます。歩を進めるごとに平和の尊さや戦争の悲惨さについても考えさせられる、一味違うクロアチアの鉄道の旅へ、さぁ一緒に出掛けましょう。
PART2
ザクレブ〜クニン〜スプリト〜ドゥブロヴニク
丘の上の宗教都市カプトルと商工業の町グラデツ(現ゴルニー・グラード)が一緒になり、1850年に正式に統合されたのがザグレブ。新市街からザグレブの原点である旧市街までは、世界最短といわれるケーブルカーを使えば、およそ3分で行き着けます。情緒あるケーブルカーは市内最古の公共交通で、1890年開業。総延長66mです。
ケーブルカーの終点、ゴルニー・グラードの丘駅のそばにそびえ立つこの建物は、13世紀に建てられた見張り塔です。塔からの眺めは抜群で、毎日正午に打ち鳴らされる大砲の音は驚くほど大きく、ザグレブの名物になっています。
ゴルニー・グラード地区の象徴といえるのが、屋根のモザイクがひときわ目を引く聖マルコ教会です。色鮮やかな陶磁器タイルを使い、描かれているのはふたつの紋章。左はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を表す紋章で、右はザグレブ市の紋章です。教会は13世紀に建てられたもので、紋章は1880年に改修工事の際、加えられました。
中世には城壁で囲まれていた旧グラデツの街で、数少ない出入り口のひとつであったのが石の門です。当時は木造でしたが、18世紀の火災で焼失し石の門になりました。門の内部には礼拝堂が設けられ、その火災の際、奇跡的に焼け残ったマリア像が祀られています。
日本語では素朴画とも表現されるナイーブアートは、クロアチアを代表する芸術。かつては農閑期に農民によって描かれていたものです。ガラスに自然を細密に描写し裏返して飾るのが特徴で、自然とともに生きる人々の温かさや懐かしさにあふれています。絵の具がほとんど空気に触れないため劣化が少なく美しさが長持ちします。ザグレブにあるナイーブアートを専門にした美術館には1930年代からの数々の傑作を鑑賞することができます。
クロアチアが発祥の地といわれているネクタイ。16〜17世紀にフランス軍に従軍していたクロアチア兵が、母親や恋人から贈られた布を首に巻いていたのを見て、フランス語でクラバットと呼ばれ、ネクタイが広まったと伝えられています。
ザグレブ中央駅からクニン、スプリトを結ぶ新型振り子式列車・特急レギオスウィンガー(ICN)は、クロアチア国鉄の最新鋭高速列車。クロアチアを南北に貫くディナル・アルプスの急勾配や旧曲線区間を力強く走っていく列車の車窓には変化に富んだ風景が広がります。
中世にクロアチア王国の首都として栄えたクニンは、アドリア海と内陸ヨーロッパを結ぶ交通の要衝でした。ローマ時代に軍事拠点が築かれて以来、常に戦乱に晒されてきた街が最大の悲劇に見舞われたのは20世紀の末。セルビア系の住民がこの地を首都とする国際未承認国家クライナ・セルビア人共和国の設立を宣言したことから、ユーゴスラビア紛争における最大の激戦地になりました。
クロアチア王国時代の10世紀に起源を持つ、ダルマチア地方最大の要塞です。敵の侵入を防ぐため、上部・中部・下部がそれぞれ吊り上げ橋で結ばれています。
クニンの街の中心には、1075〜1089年に中世クロアチア国王として君臨したドミタル・ズヴォニミル王の像が立っています。
クニンから東南7㎞に位置するビスクピヤ村には、9〜11世紀頃の教会遺跡が残っています。クロアチア初の司教座が置かれたこの村からは、聖堂跡、墓地、碑文も数多く見つかり、未発見のズヴォニミル王の墓も付近にあると推測されています。
1938年建造の教会です。8〜9世紀にビスクピヤ村の教会に、クロアチアのキリスト教史上初の聖母マリア像が飾られたことにちなんで、教会遺跡のそばに建てられました。祭壇にはイヴァン・メシュトロヴィッチ作のマリア像が飾られています。
18世紀のダルマチア地方の伝統家屋を移築して造られた、クニン近郊のパコヴォ村にある民俗村です。同地の建築や風習に触れながら、郷土料理である仔牛の煮込み料理や生ハムを味わうことができます。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスが、故郷近くに離宮を造営し、終の住処としたのがこの港町。4世紀に完成した宮殿は、ローマ帝国崩壊後に廃墟となり、7世紀初めに城壁に囲まれた宮殿跡に新たに人々が住みつき、独特の街が築かれていきました。起源から1700年をかけてさまざまな様式の歴史的建造物が加わった街は、現在一大観光地となっています。
キリスト教徒を弾圧したことで知られるディオクレティアヌスの霊廟が、8世紀にキリスト教徒を中心とした住民によって改築された大聖堂です。遺体が安置されていた石棺はアドリア海に投棄されたとされ、代わりに皇帝の迫害により殉教した聖人ドムニウスが祀られました。荘厳な雰囲気の内部には宗教美術品が数多く残っています。
ディオクレティアヌスがローマの守護神ユピテルを祀るため造った神殿は、後に洗礼堂として改築されました。洗礼者ヨハネ像の前には十字をかたどった洗礼盤があり、中世クロアチア王国の国王の姿が刻まれています。これは11世紀に彫られたプレ・ロマネスク様式の貴重なレリーフです。
宮殿の入り口に続く広場には、半円アーチで結ばれたコリント様式の列柱が並んでいます。この列柱はエジプトから運ばれた大理石を利用して、ローマ時代に建てられたもの。広場はコンサートや劇の舞台としても使われています。
ディオクレティアヌスの私邸として使われた宮殿の真下には、ローマ時代の地下通路が残っています。中世になるとワインやオリーブオイル造りに用いられ、食糧庫としても使われた地下通路には、現在土産物屋が並び、観光客で賑わっています。
クロアチアを代表する民族音楽が「クラパ」。無伴奏で歌う男性だけのアカペラ・コーラスです。ダルマチア地方のスプリトは、その民族音楽が盛んな街。天井が高くドーム状になっている宮殿の玄関口は音響効果に優れ、「クラパ」を気軽に聴ける場所として有名です。
ローマ時代に築かれた厚さ2m、高さ20mの城壁に囲まれた旧市街は、南北215m、東西180mに及んでいます。城壁の東西南北には当時のままの門が残っています。
気軽にアドリア海のシーフードが味わえる、地元で人気の庶民的なレストランです。イカ墨のリゾットやヤリイカのフライが中でも好評。牛もも肉のパシュティツァダなど伝統料理も楽しめます。
「アドリア海の真珠」と称えられる世界遺産の要塞都市。巧みな外交術で近隣国との争いを避け、長年独立を維持したドゥブロヴニクは、14世紀から300年間海洋国家としての繁栄を謳歌しました。青い海にオレンジ色の屋根瓦が映える美しい旧市街は、近年の内戦により約7割が破壊されましたが、市民たちの手によって中世の街並みが再建されています。
かつてはアドリア海に浮かぶ小島であった旧市街は、運河のような海峡を埋め立て、地続きになりました。その埋立地の上に設けられたのが、旧市街のメインストリート、プラツァ大通りです。旧市街の入り口であるピレ門からルジャ広場に続く、約300mの通り沿いにはカフェや商店がぎっしりと並び、観光客で賑わっています。
10㎞も離れたスルジ山から水を引き込み、15世紀に建設された天然の湧き水が流れる噴水です。川のないドゥブロヴニクで今も人々の暮らしを潤している噴水には、15世紀のイタリア・ルネサンスの彫刻家、ピエトロ・ダ・ミラノによる美しい装飾が施されています。
プラツァ大通りに面して建つ、15世紀に完成したこの修道院は、もともと治療院や病院、孤児院が備わっていて、貧しい人々を救う医療福祉施設としての役目を果たしていました。修道院内では1391年に開業した薬局が今も営業を続けていて、オリジナル商品も販売されています。
十字軍遠征の際に沖合で遭難し、市民によって助けられ、命をとりとめたイギリスのリチャード王が感謝を込めて1192年に創建したと伝わる大聖堂です。地震により倒壊した建物が再建されたのは1713年。宝物殿にはヴェネツィア絵画の巨匠ティツィアーノが16世紀に描いた「聖母被昇天」が飾られています。
中世にはラグーサ共和国と呼ばれた都市国家の総督が暮らした邸宅。住まいの他、評議会や元老院の機関が集まった壮麗な建物は、現在博物館として公開されています。総督は当時、独裁を防ぐため任期はわずか1ヶ月で、その間は情報の漏洩や汚職の原因にならないよう特別な儀式を除き、邸宅からの外出も禁じられていたといいます。
オレンジ色の屋根瓦が美しいドゥブロヴニクの美しさを満喫できるポイントが、城壁の上。8世紀から築かれ、16世紀に完成した現在の城壁は全長1920m。整備された遊歩道を歩くと、さまざまな角度から旧市街の風景を楽しめます。最大25mの高さを持つ城壁からは、人々の暮らしが垣間見られ、青い海や緑の山との鮮やかなコントラストも堪能できます。
背後にそびえる山は、標高412mのスルジ山。ロープウェイで一足飛びに行ける山頂からは、旧市街が俯瞰でき、沖合の島まで一望できます。イギリスの劇作家バーナード・ショーはこの景色を「この世の天国を見たければドゥブロヴニクに行かれよ」と称賛したといいます。