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コラム / 海外ボクシングコラムVol.106

<世界のトップボクサー>
復活を遂げたカリブの天才パンチャー
ミゲール・コット(プエルトリコ)II

去る6月7日、ミゲール・コット(33=プエルトリコ)は米国ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でセルヒオ・マルチネス(39=アルゼンチン)を10回TKOで下し、WBC世界ミドル級タイトルを獲得した。計4度のダウンを奪う圧勝だった。デビュー後の快進撃のあと数々の挫折を経験した男は、自力で復活の扉をこじ開けた。その近未来には再び光明が差しこんでいる。

2000年シドニー・オリンピックに出場するなどアマチュアで125戦102勝23敗(116戦93勝23敗説もある)の戦績を残したコットは、01年2月にプロ転向を果たした。初陣で2度のダウンを奪って132秒TKO勝ちを収めたコットは、その後も順調に白星を重ねていった。エリートにしては厳しいマッチメークとも思われたが、コットは世界挑戦経験者や元世界王者らを圧倒的な攻撃力で打ち破っていった。04年9月にはケルソン・ピント(ブラジル)とのWBO世界S・ライト級王座決定戦を6回TKOで制し、初の戴冠を果たした。プロ転向から3年半、23歳のときだった。以後、コットは圧倒的な内容で6度の防衛を果たし、06年にはウェルター級に転向。ここでもWBAタイトルを獲得し、ザブ・ジュダー(アメリカ)、シェーン・モズリー(アメリカ)といった猛者を退けた。

プロで初めての挫折は08年のことだった。
体格で勝るアントニオ・マルガリート(メキシコ)の強打につかまり、11回TKO負けを喫したのだ。最後は自ら膝をつくなど、心も折られたようなシーンが印象的だった。次戦でWBO王座を獲得したコットだが、09年には下の階級から上げてきたマニー・パッキャオ(フィリピン)に完膚なきまでに叩きのめされ、屈辱ともいえる12回TKO負けを喫した。
実はこのころ、コットは叔父のエバンへリスタ・コット・トレーナーとケンカ別れするなど、チーム内の不協和という問題を抱えていた。一時は栄養管理担当者をトレーナーに据えるなどして乗り切らざるをえなかったほどだ。その後、名伯楽の誉れ高いエマヌエル・スチュワード氏やペドロ・ルイス氏をトレーナーとして招聘するなど、チームに新しい風を入れることでコット自身は次のステージに進むことができたようだ。そして13年からはフレディ・ローチ・トレーナーの指導を仰いでいる。
S・ウェルター級に転向したコットは10年にWBA王座を獲得、3階級制覇を成し遂げた。2度目の防衛戦では宿敵マルガリートに9回終了TKO勝ちで雪辱を果たし、ライバルを引退に追い込んだ。

12年、前年末でトップランク社を離れたコットはオスカー・デラ・ホーヤ率いるゴールデンボーイ・プロモーションズと提携。新しい環境でフロイド・メイウェザー(アメリカ)、そしてオースティン・トラウト(アメリカ)との大一番に臨んだが、いずれも判定負けという結果に終わった。3度目、4度目の挫折である。「もうコットの時代は終わった」と多くのファン、関係者が思ったとしても不思議はなかったが、そんなどん底からマルチネスに勝って再び這い上がってみせた。

コットのレコードをみて特筆すべきは、04年9月から12年12月のトラウト戦までの21戦(17勝14KO4敗)すべてが世界戦であることだ。また、プエルトリコ初の4階級制覇を果たしただけでなく、13年11月から途絶えていた同国の世界王者不在に歯止めをかけた事実も忘れてはなるまい。

09年に興した「ミゲール・コット・プロモーションズ」の代表でもあるコットは現在、フェザー級の世界ランカー、ジェイソン・べレスやウィルフレド・バスケス・ジュニアらプエルトリコの後輩と契約を交わしている。選手とプロモーターという二足の草鞋を履く身でもあるのだ。

「喋ることは得意ではない」というコットにとって、リング上こそ自己アピールできる場なのだろう。12月に予定される次戦、その先に計画されるであろうスーパーファイトに注目していきたい。


Written by ボクシングライター原功

ミゲール・コット

ミゲール・コット

©NAOKI FUKUDA

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