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コラム / 海外ボクシングコラムVol.102

<世界のトップボクサー>
コットとの対決を控える南米の「驚異の男」
セルヒオ・マルチネス(アルゼンチン)II

世界選手権にも出場するなどアマチュアで41戦を経験後、マルチネスは97年12月にプロ転向を果たした。3戦目でひとつの引き分けはあったものの歩みは極めて順調だった。
98年に6戦したあと、99年には年間10戦をこなして全勝(3KO)を記録している。翌2000年2月、17戦16勝(6KO)の戦績を引っ提げてマルチネスは初めて自国を離れ、ラスベガスのリングに上がる。エリック・モラレス対マルコ・アントニオ・バレラのメキシカン対決のアンダーカードだった。相手はアントニオ・マルガリート(メキシコ)。ご存知、のちの世界2階級制覇王者である。マルチネスは初回にダウンを喫してペースを乱され、中盤からは相手の圧力に動きを封じられて7回にストップされた。これが現在まで17年におよぶプロキャリアのなかで唯一の完敗である。この敗北がよほど悔しかったのだろう、マルチネスは2ヵ月後に再起を果たした。

02年、マルチネスはパブロ&ガブリエルのサルミエント兄弟と出会い、主戦場をスペインに移すことになる。以後、07年までマルチネスはヨーロッパで15戦全勝(10KO)を記録、世界上位に進出した。ボクサーとして必要なスキルや経験を身に着けたという点では大きな収穫があった時期だが、マネージメントの面では十分とはいえなかった。このころ、マルチネスはディベラ・エンタテインメント社のルー・ディベラ社長と出会い、同社とプロモート契約を結んだ。それを機に今度は主戦場をアメリカに移すことになる。これが大きな転機となる。

新興プロモーターの後ろ盾を得たマルチネスは08年10月、WBC世界S・ウェルター級暫定王座を獲得。すでに33歳になっていたが、ここから南米の「驚異の男」は世界の中心で活躍することとなる。カーミット・シントロン(プエルトリコ)との試合は、いったんはKO勝ちが宣せられながら相手側から「バッティングで倒れた」との抗議があり試合は続行。結局、マルチネスにとっては不運な引き分けとなった。次戦のポール・ウィリアムス(アメリカ)との試合では、ダウン応酬のすえ判定負けという結果を言い渡された。「地元判定」という声も少なくなかった。

10年4月、マルチネスはケリー・パブリック(アメリカ)を破ってWBCミドル級王座を獲得、35歳にして2階級制覇を成し遂げた。初防衛戦にはウィリアムスを迎え、左フック一発の戦慄的なKO勝ちで雪辱。次戦でも無敗のセルゲイ・ジンジルク(ウクライナ)から4度のダウンを奪う8回TKOの圧勝を収めた。ボクサーの偏差値とでもいうべき"パウンド・フォー・パウンド"で、フロイド・メイウェザー(アメリカ)やマニー・パッキャオ(フィリピン)らとともに「最強」のひとりに挙げられたのは、このころのことである。前後してマルチネスはWBCから「ダイヤモンド・チャンピオン」なる称号を与えられたが、これは強すぎるがゆえの体のいい王座剥奪といわれて同情の声が寄せられたものだった。
マルチネスにとって不運だったのは、ライバルに恵まれなかったことである。強打のサウスポーは「パッキャオと戦えるなら3ヵ月で150ポンド(約68キロ)まで落とす」と譲歩したが、話が前に進むことはなかった。同様に上の階級のスター選手らにも「対戦してくれるなら条件をのむ」として打診したが、こちらも色よい返事はもらえなかった。

もうひとつの不運は、年齢とともにケガが増えたことである。12年9月のフリオ・セサール・チャベス・ジュニア(メキシコ)との試合では判定勝ちでWBCレギュラー王座の奪回を果たしたが、最終回にはダウンを喫して膝を負傷。昨年4月の初防衛戦では拳を痛めてしまった。そのため1年以上も実戦から遠ざかることになった。

6月7日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)。14ヵ月ぶりに戦線復帰するマルチネスは、4階級制覇を狙うミゲール・コット(プエルトリコ)と拳を交える。勝っても負けてもラストファイトになるのではないかという声が多いが、期するところがあるのだろう、マルチネスは「コットに勝ってから結論を出したい」と言うに留めている。


Written by ボクシングライター原功

セルヒオ・マルチネス

セルヒオ・マルチネス

©NAOKI FUKUDA

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